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草枕の歴史 前田家の人々


前田案山子(かがし)

 細川藩の槍指南を勤めた武芸の達人でしたが、明治維新後、農民とともに歩む決意で案山子と改名。第1回衆議院議員。自由民権運動の闘志として活躍する一方、地先農民に代わり海辺新地の免租運動に生涯をかけて取り組み、17年間(1次)に次いで30年間の免租を得ています。自身の墓には貫いたその意志を誇示するように「日潮士」の碑名が刻まれています。
「城下(熊本)まで、他人の土地は踏まずともいける」といっていた名望家前田家の強大な統帥。「草枕」の「志保田の隠居」のモデル。

前田 ツナ(卓)

 「那美さん」のモデルとなった案山子の次女。「草枕」では「キじるし」などと周りのうわさを表現されていますが、父案山子の影響からか文武に優れ、豪胆な性格で思想等を自由に表現するようなところが漱石を魅了したのかもしれません。父亡き後、妹ツチに請われて上京。「民報社」の台所を預かり、在籍の中国留学生から慕われていました。黄興の1周期に中国に渡ったツナは「私の身体は日本より支那の方が適している」と言ったそうです。
 上京後10年ほど後、末弟利鎌をつれて漱石に再会。一家のできごと、中国革命との関わりなどを知った漱石が、件の「草枕も書き直さねば‥」を語ったものです。
 民報社解散後は中国青年に変わり東京市養育院板橋分院に勤め、孤児に慕われていました。昭和13年、71歳で亡くなり、生前自ら建立、養子利鎌を葬った埼玉県野火止めの名刹平林寺の墓に永眠しています。

前田下學(かがく)

 案山子の長男として早くから父と行動をともにし、政略協議で走り回る父の代行として大役も果たしていました。明治22年から23年にかけては、大隈外相の条約改正闘争において大同倶楽部のもと、共闘団体の不調を訴える脱退表明や大懇談会を主唱しています。
 父の政界引退や他界の後、上京しても政治運動との交流は続き、事業に苦心しながらも、自宅には常に政客が絶えませんでした。
 「草枕」の中の「兄さん」のモデル

写真、隣は妻フジ

前田清人(きよと)

 案山子の次男。兄弟姉妹の中でもとりわけ端整な顔立ちの清人は政治的な活動ではほとんど表立ったことはなく、5歳違いの兄下學とは嫁も姉妹ということからも大変仲がよく、敬愛する兄を裏で支えていたと考えられています。
 不幸にして37歳で病死しましたが、これを契機に前田家は分裂。小天のシンボルともいえた本邸「白壁の家」は失火により焼失。ついに再興、再建できませんでした。

前田行蔵(ぎょうぞう)九二四郎(くにしろう)

 3男行蔵(写真右)、4男九二四郎(左)の二人は年齢も近く、行動も共にしています。
 剣術家であった二人は、小天時代には、第2別邸に匿われた黄興の警護を務めていたといい、上京後は義兄滔天とともにシャムに渡り、滔天帰国後も20歳の九二四郎は一人残りバンコクで水田労働に従事し鍛練。この時の縁で再度渡航。行蔵は同国の軍隊、警察で日本武道を指導しています。
 その後も二人はそろって滔天を支援、中国革命運動に荷担しています。九二四郎は、黄興らと研究した爆弾が大隈首相暗殺を狙う犯人に渡る過ちで投獄されたりしています(福田和五郎事件)。普段は剣の名手として中国要人の警護にあたっていました。
 この頃、断絶した長兄下學も孫文の秘書らと交流。前田家がツナ、ツチを中心に中国革命運動支援でその力を再結集することになっていました。

前田覺之助(かくのすけ)

 5男。昭和3年から昭和26年、亡くなる直前まで日本放送協会(NHK)に勤務。生母を早く亡くし、一家離散と中国革命のため養育費さえ流用され、貧困の極致を体験しながらも、前田家には珍しく一般的な人生をおくっています。

前田利鎌(とがま)

 6男。漱石の小天来遊の頃生まれる。10歳の時上京するが生母が死亡。姉ツナのもとに同居。後に黄興の薦めでツナの養子となります。
 相当の苦学ながらも16歳にして独歩、漱石、ルソー、トルストイを愛読するほどで、この頃、ツナに伴われ漱石に会い、以来夏目家によく出入りするようになっています。一高入学時にはトルストイ、ニーチェなどに心酔し、東京大学哲学科に進み、卒論「ファウストの哲学的考察」で卒業。漱石娘婿の松岡譲とも共訳を試みるなど深く交友。小使い乏しき時は漱石未亡人鏡子の肩をもんで調達するようなこともあったといいます。
 前田家の子弟として武道も心得ており、東京高等学校講師時代には剣道部長を務め、その後も兄と撃剣に励む一方、平林寺や見性院に入門、毎月熱心に修業しました。
 東京工業大学専門部教授となり、講義には前任校や他学の学生も集うほど慕われ、この頃の聴講生の中に九二四郎の長男利道(としみち)がいます。
 著書「宗教的人間」「臨済荘士」のほか数多くの著作を残し、昭和6年、34歳の若さで亡くなりました。

下學の長男學太郎(がくたろう)と家族

 父案山子と政治活動に励んだ下學ですが、政治よりも文芸において天才的な面を見せています。強大な父ゆえに生来の才を生かす自己の道が歩めなかったのでしょう。
 その長男、學太郎は幼少より下學に武道、馬術等を厳しく教え込まれていましたが、父が興した出版社を皮切りに新聞記者となり、朝鮮通信政治部長に就いています。その一方、京城で尺八を始め、宮城道雄とも知り合い多数共演し、竹名翠雨として活躍。その深い交友は道雄研究には欠かせぬ存在となっています。
 學太郎のツネも、新聞記者を経て雑誌「房總の婦人」を主宰。会員には各界名士の婦人等が集い、夫が編集に協力、白蓮も一時歌壇を担当していました。同誌に掲載の學太郎著「宮城道雄伝」は宮城道雄記念館に展示されています。

平井家

太郎八(たろうはち)
 案山子の長女シゲの夫。下學とともに早くから案山子の自由民権運動に共鳴、活動をともにしていました。
貞太郎(ていたろう)
 太郎八の長男。幼少の頃から前田家に出入りし、岸田俊子を迎えた演説会では11歳にしてツチとともに壇上に立ち、熊本の少年、少女演説の祖となっています。
平次郎(へいじろう)
次男。上京し活動弁士として活躍していました。
三男(みつお)
 3男。東大法科を卒業後、朝鮮総督府をはじめ同国、支那などの外地政府機関を歴任。主に朝鮮での政務が多く、鉄道局理事、京城法学専門学校長などを経て支那国立新民學院教授。この間、青森県、山口県知事に就任しています。
特に朝鮮での政務に通じ、共著で「世界より朝鮮へ」「朝鮮読本」等を著しています。

前田金儀(きんぎ)

 案山子の甥。父に早く死別し、育ての伯父案山子を敬い、小天小学校教師でありながら、村会議員、玉名郡町村連合会議員として、案山子を補佐し、従弟下學らの範として活躍しています。残された克明な日記は、黎明期の自由民権運動等を明らかにする貴重な史料となりました。
 写真は、草枕交流館に展示されている金儀の日誌。九二四郎夫人である金儀の次女チヨが保管していたと思われ、その次男嗣利夫人花枝さんから寄贈いただきました。

宮崎滔天(とうてん)ツチ(槌)夫妻

 3女ツチは荒尾の宮崎4兄弟の末弟寅蔵と結婚しています。
夫寅蔵は滔天として知られ、孫文の中国革命(辛亥革命)に物心両面から献身的な支援を続けました。清朝政府から追われる孫文を助け、一方の革命派リーダー黄興らとの同盟を結ばせるなど大きな役割を果たしています。
 ツチは、私財を投じて革命運動支援に奔走し家庭を省みない夫に耐え、石炭販売などで生計をたてていました。この時、長男龍介は前田家に預けられ、八久保小学校に通学しています。上京後は同盟成立とともにますます人の出入りも増加。姉ツナに支援を要請。民報社の賄いを頼んでいます。
 滔天の影で家庭の支えに徹していたようですが、明治40年、慌ただしい同盟の活動や生活苦の中にもかかわらず、足尾銅山鉱毒事件に関して、国策のため民衆を犠牲ににしようとする政府と戦う田中正造へ自ら支援活動を行っています。
 夫の理想を理解、貧困に耐えることは前田家の女、ツチだからできたといえます。11歳にして岸田俊子の前で演説会の壇上にたつなど、自由民権運動の渦中で培った精神力のなせるところだったのでしょう。

宮崎龍介・白蓮(りゅうすけ・びゃくれん)夫妻

 滔天、ツチ夫妻の長男。小学生時代は前田家に預けられ八久保小学校を卒業、伊倉高等小学校に進んでいます。
 東京大学を卒業し法学士となった龍介は、在学中に出版の仕事で知り合った歌人柳原白蓮と結婚しました。
 昭和7年、龍介は満州事変の拡大の阻止を計る近衛首相の特使として、父滔天の功績から親交の深い蒋介石との和平交渉を託されるが、侵攻を計る軍部に逮捕監禁されています。

 大正のロマンス

 龍介と結婚した白蓮は大正天皇のいとこにあたり、歌壇で活躍していました。この時すでに筑紫の石炭王といわれる伊藤伝右衛門の妻として「赤銅(あかがね)御殿」と呼ばれる屋敷で何不自由なく暮らしていましたが、政略結婚の上、夫の素行に耐え兼ねた結果、自らの意思を貫き、恋人龍介のもとへはしったこの恋愛は「白蓮事件」として話題となりました。

丸山政平(まさへい)

 若い時から前田家に仕え、主家思いの温厚忠実な人柄で家人に可愛がられていました。一家離散の後、請われて上京、前田家の後には宮崎家に移って奉公。龍介・白蓮夫妻のお世話もしています。
「馬子の源さん」のモデル。